1870年の創業から1945年の財閥解体まで、三菱は岩崎家の四人の社長によるリーダーシップのもと、幅広い分野で事業を展開しました。その歴史を語る展示史料の一部を紹介します。
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汽船「夕顔」の売渡し証(1871 )
「夕顔」は、岩崎彌太郎が高知藩から2万両で購入した。
従来の船舶に比べて速度・輸送力に優れ、三菱の創業期に活躍し、海運業発展の足掛かりとなった。
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第一命令書(1875)
政府は汽船12隻を無償で下げ渡し、助成金として年25万円を15年間給付することとした。
三菱は、郵便物・官物の託送、政府の命による航路開設、政府の要請に応じた社船の徴用、政府の会計監査、
商船学校の設立、郵便汽船三菱会社名による海運以外の事業禁止、などが課された。
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勤務規則の制定(1876)
会社規則や簿記法と共に勤務規則も整えられた。
「一六休暇の旧慣を廃止し以後毎日曜日を休日とする」(右)
「社員の勤務時間を午前8時より午後4時までとする」(左)など。
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外国人雇入免状(1876)
F.クレブス(デンマーク人)の雇入免状。
クレブスは1873年に鉱山機械方監督として雇い入れられ、1876年に「管事」となった。
これは、雇入を更新した際の免状。
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東京南茅場町本社(1877頃)
東京南茅場町本社前での三菱幹部の集合写真。
三菱商会は1874年、本拠地を大阪から東京南茅場町(現中央区日本橋茅場町)に移した。
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三菱幹部(1877頃)
後列左から、浅田正文、本田政次郎、副社長 彌之助、荘田平五郎
前列左から、石川七財、社長 彌太郎、川田小一郎、クレブス
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郵便汽船三菱会社簿記法(1877)
「第1章 勘定の定規」17カ条、「第2章 帳簿の定規」14カ条、計31カ条から成り、
前者に会計処理の方式、後者に使用する各種帳簿の内容と決算方式が定められている。
他社に先駆けて複式簿記を導入し、会計制度を体系的に整備した。
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入社規則(1881)
入社する者は、規則を守ることを約束した上で、「入社規則」にサインをして社長に提出した。
これは、南部球吾が入社する際のもの。南部球吾は米国コロンビア大学に留学し鉱山学を修めた後、三菱に入社。
髙島炭坑支配人、鉱山部長、炭坑部長、管事などを歴任した。
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長崎造船所拝借願(1884)
政府は、財政再建のため、三菱に工部省長崎造船局貸し下げの打診をした。
三菱はこれに応じ、1884年6月、工部省に貸与を申請し、許可を得た。
名称を長崎造船所と改め、 1887年6月、土地・建物・機械器具等一切を買収、名実ともに三菱の手に移った。
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丸の内払下げ代金の領収証(1890)
明治政府は陸軍兵舎新築費用を捻出するため、
丸ノ内、三崎町の土地、合わせて10万7千坪の一括買取を打診し、三菱はこれを引き受けた。
代金128万円は、当時の東京市の予算の約3倍に相当する。
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銀行営業認可書(1895)
三菱合資会社が銀行部を設置した際の、大蔵省からの認可書。
第1号館(現丸の内2丁目6番)に本店営業所を置き、傘下の第百十九国立銀行の業務を継承した。
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岩崎小彌太社長の訓話(1941)
開戦となった以上、全力を挙げて国家のために一致協力しよう、
しかし時局の急変に対し臨機の措置を講ずるのは当然であるが、百年の計を忘れてはならない、
また、英米の旧友に対しては、国法の許す限り、その身辺と権益を擁護すべきである、と訓示している。
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無配の措置を採るべき旨の通告(1945)
1945年10月23日、自発的解散の決意を促しに三菱本社を訪れた大蔵大臣渋沢敬三に対し、
社長の岩崎小彌太は13,000名の一般株主に対して株式を配当できるよう要請した。
しかし、1週間後、この文書によって無配の措置を採るよう通告された。
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『養和会誌』 会長追悼号(1946)
岩崎小彌太社長の遺稿となった訓示、親交の深かった人々からの15編の追悼文等が掲載されている。
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三菱本社解散通知と清算通知(1946/52)
第二次世界大戦後、連合国総司令部により財閥解体の方針が出された。
株式会社三菱本社は1945年11月の株主総会で小彌太社長から田中完三社長に交代し解散準備に入り、
翌年9月、解散を決議した(右)。1952年4月、臨時株主総会で清算が完了した旨報告された(左)。